景観の価値


 今、皇居二重橋の前に立つと、隅櫓の上に何本かのクレーンがみえる。皇居内で何か作っているのかと気をつけてみると、半蔵門側で高いビルを作っていることが分かる。やがて皇居の森の上にニョキリと高層ビルが顔を出すことになるのだろう。これは実に貧しい風景だ。また、国会議事堂の上にも何本かのビルが顔を出している。国会議事堂の建物としての風格は中和され、いかにも3流政治を象徴しているかのように貧相だ。
 これが日本の首都の代表的な風景とは情けない限りである。一体、このように主張のない景観をもつ首都がどの国にあるだろう。皇居を、国会議事堂に外国人を案内する。どこに焦点を合わせたらいいのか。全く景観に主張がないのである。

 狭い国土だから、とか土地が高いから、とか自由だから、というのは屁理屈だ。風景は一つの文化である。まさに地域の住民が共同でつくりあげていく作品だ。そこには調和というものが必要である。他国の町並みを見てみるといい。そこには町並み自体を、その地域全体の見え方を考えた計画、主張がある。私は西欧の数カ国で町並みを観察してきたがどこも美しい。絵のようなと形容してもよい場所が沢山ある。日本の町にそのような場所があるだろうか。ない。観光地の冷たく綺麗な一断面はあるにしても、人々が守ってきた風景というものは存在しないだろう。電柱、新建材、剥き出しの工場・・・全く調和の取れていない貧しい風景だけが視界に入る。景観に金を使うなど馬鹿馬鹿しい、という考えが大半なのだろう。が、美しい風景が心を和ませるのは事実である。風景もひとつの絵画だ。地域の人々がひとつひとつ作り守っていく点描のようなものではないだろうか。
 問題は東京の中心だけではない。京都や奈良、鎌倉などの古都として日本を代表する町にしても街としての調和はない。景観に対するポリシーは全く感じられない。ただ歴史的建造物等、幾つかの点を近視眼的に守っているだけだ。

 皇居近辺の話に戻ると、以前は帝国劇場のビルに見られるようビルの高さは横並びで揃っていた。それが、ひとつふたつ高いビルが建ち、バラバラの景観になって来ている。以前は建て主の良識があったのだろうか、それとも行政の指導があったのだろうか。なぜそれがなくなったのか、残念でならない。景観は空気や水と同様公共の利益である。今こそ、こういった金とは無縁のアメニティに価値を見いだして行かなくてはならない時代だろう。でなければ、日本は何時まででも金の亡者、3流国である。