| 何時だったか、「学校の制服がいじめの一因になっているのではないか」、という投稿が有りましたが、 私も実に同感です。それどころか、現在の教育のもっとも大きな弊害が制服でないかとも思っています。 子供が多かった昔、成長の過程であったこの国では制服がどうであれ、個性的な人物が出て社会をひっぱり、 また底辺で社会を支えた人たちも多くでました。 しかし、少子化、かつ成熟してしまった今の社会ではそれを同様に論じることはできますまい。 制服に代表されるような没個性的管理教育はもはや100害あって一利無しです。 教師の意識も能力も変化し、親の子育てに対する意識も地域社会も変わり続け、 様々な弊害が顕在化しているにも関わらず何の手も打てない。そこには制服が持つ 均質化幻想が影響していると思います。以下、制服の問題点をまとめてみます。 第一に、制服による管理教育はまさに護送船団。制服さえ着ていれば学校や家庭に保護されているかのような 錯覚を生む。それがいきなり社会に放り出されてマナーもできてならければ、 社会性のかけらもない青年がばっこする。成人式であばれるなど、 精神年齢のの低い青年が育ってしまうのも、制服の影に自我の成長を見失っているからです。 大体自由や権利を語り、ラフな恰好で授業をしている教師の多いなか、 目の前の生徒にはきわめて戦前的な制服を強要する矛盾。教師の頭の中ではどう整合性をとっているのでしょう。 第二。教師の誤解。一様な服装なら一様な考えを持っているかのような誤解。 教師も制服に隠された生徒の個性、心理に気づかないことが多いのではないでしょうか。 団体スポーツや企業の制服というのはまさに一様な力、個性を求められるからこそ存在するのです 。団体競技でもスター選手はいますが、個人の成績よりチームの成績が第一であることは誰でもいうことです。 学校でもその必要があるのでしょうか?団体生活として最低限のマナーを守れるなら、 むしろそれは逆でしょう。 もはや日本での教育は団体競技ではありません。識字率などが低かった以前の日本では、 団体として最低限の画一的教育が必要だったでしょう。 しかし今や、個人の能力を伸ばすことが教育の使命とも言える時代です。 それの分かっている教育者がどれほどいるのでしょうか? 「みんながやっているんだから、おまえもやれ」よく耳にする言葉です。実は何の論理性もない。 「みんなが制服を着ているんだからおまえも着ろ。」「みんなが因数分解できるんだからおまえもできるようになれ」 それだけで教育を総括しようとする。それから外れた者は異端児、犯罪者扱い。個性の尊重などどこにもない。 それが現在のいじめ、学校の荒れにも繋がっているのではないでしょうか。 第3に制服が中途半端であることです。制服さえ着ていれば、ミニにしようとルーズソックスにしようと 体操服をスカートの下にはこうと、ボタンを閉めなかろうとお構いなし。 生徒たちはギリギリのところで個性を発揮しようとする。それが実にアンバランス。 身だしなみのかけらもない。おまけに1着程度しか持っていないせいか、汚れ、匂いが酷いものも多々見受けます。 これで服装に対する美的感覚が育つのでしょうか。 そして、学校側とつまらない確執。まさに労力のムダです。 第四に、自分に強制されているものは他人にも強制するようになることです。自分が従っていることなのだから、 他の人も自分と同様にしていないと納得できない人々がいる。靴下から髪形に至るまであらゆることで難癖をつける。 これがいじめに繋がる。 第五にコンプレックスの助長です。成長期の大事な時期に制服という縛りにあって、ファッションに関するマナー、 感性の発育は全く無視されます。欧米の同年代のファッションセンスに対し日本人はコンプレックスを持ち、 地方の人は都会にコンプレックスをもつ。これは成長期にないがしろにされたファッション感覚が大きく関係しているでしょう。 最後に、「強制されるものは配給されなくてはならない。」という大原則に反して自己負担という矛盾。 銀行のお姉さんの制服もプロ野球選手のユニフォームも軍服も全部配給(貸与)されていますね。だからこそ調和が取れている。 こんな理に適わぬことを強制していて、理に適った教育ができるのでしょうか。 という具合です。 制服の自由化を論じるとかならず、「非行の抑止力」とか「団体生活のけじめ」「服装に気が散る」などという言葉が出てきます。 しかし、制服姿でくわえたばこ、学校で馬券を購入などという生徒が珍しくないなか、全く説得力はありません。 価値観を一様にする団体生活の強要も個の重視という時流から逸脱するものです。年頃から言って気が散る対象はたくさんあり、 それが服装ならかわいいものではないですか。それに身だしなみに気をつかうことは重要な社会勉強です。 そういったご託を並べることじたい、既に教師の限界を語るものです。 生徒たちは成長しています。しかし今の学校教育は盆栽です。のびゆく生徒に成長にあわせた鉢を用意せず、 剪定することで人間が出来上がると思っている。そのいつまでも同じ鉢がまさに制服です。 根を飛びださせる子供いれば、鉢にヒビを入れてしまう子供もいるでしょう。しかし、学校はそれを異端とする。 逆に言えば、学校に包容力がないということでもあります。 私は、今や私服でいることが社会の一員である自覚を促すものだと思います。国家についても個人の義務権利についても 社会に位置する自分のありかたについても、全く教育を受けない日本の生徒。地域や学校が求心力を持たなくなった今、 世界に通用する人間をつくるには、制服を自由化にし自我の確立を目指させることが必要ではないでしょうか。 また、同時にそれが学校自体の改革にもなると思います。 言いかえれば、時代は変わり、子供たちは個々の質を高める必要があるのです。 今後単純な労働力を外国人に頼らなくてはならなくなる事を考えると、管理的ポストに就く日本人の割合を高めざるをえません。 以前のように一部の日本人が大多数の日本人を管理すれば良かった時代は終わろうとしているのです。 |
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